92歳の母を介護する中で見えてきた「老い」と「衰え」
若い女性の人生相談をきっかけに、年齢を重ねることの意味や、衰えとどう向き合っていけばいいのかを考えるようになりました
私が「衰え」を意識したのは、体が先だった
最近、新聞の人生相談欄で
「老いることに恐怖と嫌悪感があります」
という記事を目にしました。
相談者は、まだとても若い女性でした。
相談事を読みながら、
ふと、92歳の母を介護している自分と、老いていく母の姿が浮かんできたのでした。
若い人も、老いを怖がる。
衰えることを、そんなに早くから意識するものなのか……。
正直、少し驚いたのです。
老いというのは、もっと年を重ねてから、
体が言うことをきかなくなってから、
じわじわ実感するものだと思っていましたから。
ただ、考えてみると――
私自身も「衰え」という言葉を本気で意識したのは、頭ではなく体でした。
病院では、
・筋肉性の腰痛
・筋肉性のひざの痛み
・部分的な視力の低下
これらをまとめて、
「年齢による老化現象ですね」と言われています。
階段を上がると息が切れる。
細かい文字が読みづらい。
無理をすると、翌日まで疲れが残る。
しかもその疲れは、若い頃の筋肉痛とは違って、
体の奥に沈み込むような重さがあります。
自然界のことを考えれば、
生き物が歳を重ねて老化するのは当たり前です。
頭では分かっています。
それでも――
正直、つらさを感じてしまう自分がいます。
母の老いは、想像よりずっと速かった
そしてその感覚は、
母の老いる姿を前にして、さらに深くなりました。
母は、めまいによる転倒をきっかけに大腿骨を骨折し、
そこから、ほぼ車椅子での生活になりました。
たった一年足らずの出来事です。
昨日まで歩いていた人が、
今日は立つことに不安を感じている。
その変化の速さを、
私は毎日のように目の前で見ています。
現在は要介護3を受けていますが、
それでも「衰え」は待ってくれません。
自分の体の変化。
母の急激な変化。
そして、若い女性の老いへの恐怖。
それらが重なったとき、
私は否応なく考えさせられました。
衰えることと、どう付き合えばいいのだろうか。
老いは本当に「衰え」だけなのだろうか
人生相談の回答文の中に、こんな言葉がありました。
老いは衰えではなく、成熟なのだと。
できないことばかりに目を向けるから、老いが怖くなるのだと。
その文章を読んだとき、
正直、少し戸惑いました。
腰は痛いし、膝も痛い。
目も見えにくい。
これを「成熟」と呼べるのだろうか、と。
でも、しばらく考えてみると、
まったく納得できないわけでもありませんでした。
それでも、確かに育ってきたものもある
若い頃と比べて、できなくなったことは増えました。
その一方で、増えたものもあります。
・人の痛みに気づく早さ
・無理をしない判断
・待つこと
・比べないこと
こうした感覚は、若い頃より確実に育っている気がします。
母を見ていても、そう思います。
体は不自由になっても、
人への気遣いは残っている。
「ありがとう」を忘れない。
人の話をちゃんと聞こうとする。
それは「若さ」ではなく、
長い人生の中で育ってきたものなのだと思うのです。
価値は年齢ではなく「どう生きてきたか」で決まる
老いを衰えと感じるか、成熟と感じるか。
その違いは、年齢ではなく、
その人がどんなふうに生きてきたか、
どんな行動を積み重ねてきたかにあるのかもしれません。
若い相談者の不安も、
決して間違いではないと思います。
でも、年齢を重ねることは、
価値が減っていくことではない。
価値の形が変わっていくことなのではないか。
そう思えるようになりました。
健康寿命とは「生き方の質」なのかもしれない
最近よく耳にする「健康寿命」という言葉も、
ただ病気をしない期間のことだけではないように感じます。
・自分で考えられる時間
・誰かと関われる時間
・自分の価値を使える時間
そうした「生き方の質」も含まれているのではないでしょうか。
衰えをゼロにすることはできなくても、
成熟を深めることは、いくつになってもできる。
そう考えると、
老いは終わりではなく、
別の形で続く「育ち」なのかもしれません。
おわりに|衰えながら、人は成熟していく
若い女性の相談文を読んだとき、
私は少し驚きました。
でも、今はこう思います。
老いを怖がる気持ちも自然なこと。
衰えをつらいと感じるのも当然のこと。
その上で、
それでも人は、成熟していける。
衰えながら、価値を育てながら、生きていく。
介護をしながら、
自分の体の変化を感じながら、
私はそんなふうに思うようになりました。
もし今、
老いが怖いと感じている人がいたら、
問いかけてみてほしいのです。
自分の中で、何が育っているだろうか。
それに気づけたとき、
老いの景色は、少し違って見えるかもしれません。

